昭和五十四年六月八日 朝の御理解                                                                                                  
御理解 第十四節                                 「神は荒地 荒屋敷をお嫌いなさる」


 昨夜は総代会でございました。昨日から、信徒会長も総代会の中にはいる事になりまして、昨日から、秋永先生も総代会の中に来ております。
 まあ、いろいろお話し、結局は信心研修になりましたが、秋永先生が前の代の総代と、今度の総代との相違を質問を受けました。
 これはまあ、私としては、も、いつの場合でもそうですけれどももう、私を教会長とするところの総代だけではないけれども、総代幹部、信者、本当に私の信心には、すぎた総代だと、前の総代もそうであったし、今度の総代もやっぱりそうだ。願われるところはないですか、と。
 願いと言うと、そりゃ欲が何ぼでもあります。あげんもあってほしい、こういう信心もしてほしい、と、ま、いろいろありますけれども、突差に聞かれてから、あれこれというふうに、まあ、本当の答えが出来なかったような感じがして、昨日も十二時過ぎまででしたが、あちらへ退がって文男先生が足を揉みに来て下さいましたから、揉んでもらいながら、また、返った後もほんに今日は、あヽいう質問を受けたが、本当に総代に求めるものとか、願うものとか、ということは、大体私はどういうことだろうか、と。
 そして、ああこげんも言えばよかった、あげんも言へばよかった、と、いう思いがしきりに出て来るんですね。
 第一に、合楽の信心は、先ず日参・教聴・心行・家業の行、いよいよ合楽理念の実験実証信者として、実証家庭として、家庭あげての信心になっていかなければならん。その範を示すような一つ信心をしてまらいたい、と。これを一番口に言やあよかった、と、まあ、思ったんですけど、その後に感じたことです、ね。
 もうこれは合楽の真です。日参、教聴、心行、家業の行、ね。合楽理念の実験実証の人であり、また家庭であってほしい、ね。そして、日勝り年勝りのおかげを頂いてもろうて、そいう年勝りのおかげを頂いて、それから、いよいよ信心の真を現して、ね、その信心の真を現わす、ということによって代勝りのおかげとも、ね、いよいよ真善美に輝く貧争病のない、言うなら徳の世界、言うなら合楽世界に住んでもらわなければならない、と、いうわけでございます。
 それで私、皆に聞きましたけれど、今月の『おかげの泉』が出てます。新聞も今月号が出てます。皆、読んだんですか、と聞いたら、何人かしかなかった。皆、読んでない。
 もう私共、きたなら、もうすぐ、それこそ何回も何回もくり返しとるとですけれどね。読んでみるんですけれども。
 昨日、川上さんがお参りして見えて、先生、今度の、いつもの事ですけれども、今度のおかげの泉は見出しがはっきり、大きく活字で出ておる。
 だからもう、その一コマ一コマが、もう合楽示現活動をさせて頂くその見出しだけでもですね、言うたら、ほうーと言うて聞き耳を立てる、て、皆が。
 だから、そこんところだけ説明すると、とにかく、ま、素晴らしいという反応がかえってくる、と、いうことを昨日お届けしとられますね。
 そりゃもう福岡から六年ですか、毎日、日参されるのですから、もう電車の中、バスの中では、もう、その時間に通う人達の顔見知りがいっぱいあるから、おばさんの話を聞かせてくれ、という若い人があるかと思うと、もう、いつもの顔の方が話を聞くとを楽しみにしておられる、と、まあ言うのです。
 だから勉強不足だなあ、と言うて、言ったことでした。
 本当に、あの扉に書いておりますように、少なくとも十回は読んで下さい、と、いうふうに私は書いとりますよね。あれだけでおかげ頂くんです。そして勉強になるんです。十回も読みよると、全部が見えなければ。
 これは家族の者もね、私は読んだか、と、言う位な日々、もう本当にそれが、言うならば、それがそのまま教聴になるんです、ね。日参教聴と、こう言うけれども、そんなら、いくら総代でも遠方からの人達は、そんな毎日というわけにはまいりません。けれどもそれに代わる日参的信心というものがなされるためにです、これは宮崎あたりの方達が、殆ど、中心をなす人達はそれをなさっておられますが、電話をかけたら、電話をかけるたんびにキチッとお初穂してあります。もうお日届けの事は、これで日参として神様が受け取って下さるわけ。
だから総代さん達、お参りが出来ん人達は、せめて言うならば、お日初穂だけではさせてもらわにゃいかんばい、範を示してもらわにゃいかんばい、あヽこういうことも言ゃよかつた、と、私は思うた。
 教聴は、言うなら、おかげの泉の勉強である。ただ買って行っておるだけ、ただ積み上げとるだけ、そういう人が多いのではないだろうか、と。合楽のご信者は非常に耳が肥えとるけれども、それけんと言うて、サアそれを発表させると勉強ができとらんから発表ができない、ね、と、言うような話になりました。
 これは、総代だけのことぢゃないです。これは皆さんんが、皆さんはこうやって日参が出来とりますから、日参が出来ておられない方達に、そういう一つの範を示す、そういう範というよりも、そうすると、こういうおかげが受けられる、という実験ね、そしてそれを実証を皆にして頂く。これなんか、もう合楽教会の全信奉者に徹底していかなきゃならない事です。私が日々祈りの中心ですから。
 日参、教聴、心行、家業の行、合楽理念の実験実証家族としての言うならば実証をしていく。そこには、どうしても実験しょうとすると、その日の御理解と言うか、言うなら勉強しなければ実験が出来ませんもん、ね。
 今日は、このご理解のここんところを本気で実験さしてもらおうというようなね、信心家族であらなければならない。その代表であるところの総代さん方は、勿論そうでなからなきゃならない。
 それから、この事も言へばよかった、と思った事は、前の総代さん方はね、全部が宅祭りをしたです、一年の謝恩祭を。ところが今度の総代さん方は、信心は非常に進んでおるけれども、したりしなかったり、という人達が多いのです。これも、例えば合楽の代表信者である人が、一年に一回の、言うなら謝恩のお祭りを仕えんてんなんてん、ちょうとおかしい、と思う位です。これはね、もう私のところの総代には、言うならば、もうそれこそ、昔、椛目の時代に頂きましたよに、ね。
 椛目の当時の神愛会ですね、の、信心に過ぎたものが三つある。
一つはおかげが過ぎて、何とかがすぎて、そして最後には仲が良すぎる、ということを頂いたです。信者と先生の仲がよすぎる。
 ですから、私の信心に、こんな立派な信者さん達ばっかりがあるということは、やはり私の信心には信心がよすぎる。これはもう、衆目のそれなんです。
 合楽の信心は立派だ、と。ご本部参拝させてもろうて。合楽の信者だけは、ころっとしとる、と。
これは、私の自分よがりだけではなくてね、うぬぼれぢゃなくて、そういう定評がある位ですから。これは、私の信心程度にしては、皆さんの信心は出来すぎとるごたるけれども、なら、教会長としてもし、んなら、欲を言ならば、今のようなところに、言うならば代表信者とある、毎日、日参教聴が出来とる人達ならば、教聴日参が出来ておるだけの実を家庭の上で表してもらいたい、勉強してもらいたい、と、言うわけです。
 そして、言うなら代表信者であるところの、一年に一遍の、毎日、お礼だけ申しあげとるけんで、て。そげなもんぢゃなかです、宅祭りと言うのはね。そりゃなかなか、合楽の謝恩祭てんなんちいうこつはなかなか出けませんです。そりゃ、もうただね、ただ、親先生に来てもろうてお祭りしてもろう、ち、簡単な過去の、私共の他所の教会で知っておる程度の宅祭りと言うたら、もう合楽にはどれだけあるかわからんですね。あの程度のお祭りを奉仕する位のなら、ところが合楽の場合は、そんなわけにはいかんのですょね、やっぱ。
神様が生々と働きなさるからね、生々と、する、と、いう気になったら、そういうことになってくるんです。やっぱ、ね。ちょうとした教会の大祭のごたるです。だから、なかなか出けませんけれどもこれはやはり、総代ともなり幹部ともなったら、その一年に一遍の謝恩祭位出来るような願いをもたなきゃいけない、ということですよね。
 まあいろいろ、あれも言えばよかった、これも言へばよかった、ということが、まだ、いろいろありましたけどね。
 日参、教聴、例へば、もし今日、お参りが出来なかったら、ね、お日初穂のお供えを、ちゃん、うちでさせて頂いて、そして、おわびするところはおわびさせて頂く、だから、日参ということは、日参的信心ということになるだろう、と思うです。合楽の場合は、ね、日吉ツルという先生が、本当に無学のお方であったそうですけれども、難儀な病気のために、当時の小倉に毎日、いわゆる日参的信心をなさった方で、有名な方です、ね。とにかく一日がかりで、まだ汽車がない時分ですから、お参りをされる。それに毎日、自分の食べるお米からね、例えば十合づつへづんなさったそうです。だからそれが一升になった時には、丁度十日になった時ですから、それが一升になるとを楽しみに参られた、ということです。
 これなんか素晴らしい、日参的信心の手本のようなものです。ね。
ただ、お初穂しとるというだけぢゃない。自分の身をけづって日参される、と同じことになった。ある時のお参りに、それをお供えなさると、桂先生がそれをお供えなさった、そして、日吉ツル、真の信心になった、という、ご栽伝があったということです。ね。
だからそういう素晴らしい手本があるのですからね。本当に一日でも、日参しなかったらおれない、けれども事状がある。そこには、なら、だから日参的信心、教聴、はあ、今日はどういうご理解やったやろうか、と、思うけれども、言うならば、沢山、お宅でたまっておるおかげの泉を、どこからでもよいから、人言でも聞かせてもらって、勉強させてもらうつもりで、頂いたら、ここで教聴するのと同じ、言うなら教聴、日参。
 日々、教聴していることと同じことになるわけなんです。これはどうでもね、合楽の信心の芯になるとこですから、皆さんがそれを実行なさらないと言うならば、中は空洞になってしまうです、合楽の信心が、ね。そこからね、所謂、実験実証のおかげも頂かれる、ということになります。
 昨日も十四節でしたね。昨日の御理解を頂いて研修の時に、もう、とにかく、とにかく金光様のご信心の、言うならば、成程、和道十全である、ということを皆さん、昨日、総代会の時に、あんた達は今朝のご理解頂いてどげん感じたか、と言うて、聞いたことでしたけれども、言わば感じ切っていないですね。ね。
 昨日の、ご理解は、大坪総一郎という、ぬくぬく布団の中に寝ておる私と、ね、そこに松本幸四郎、言うなら、布団も敷布も敷かずに寝んでおる。それを私の、もう一人の大坪総一郎という、そういう意味でしたね。 そこに、言うならば、人間らしい生き方をなさった生神金光大神と言うのは、ね、所謂、本当な生き方、それが真の信心であり、真の人を目指すという事である、ということ、ね。
そこに、言うならば、冬の寒い霜の朝のような厳しいもの、と言うなら、春の、ま、春風駘蕩的なゆったりしたものと、そこに人間性を失わず、本当の人間的生き方というものが、それとこれとがコントロールされて、本当な生き方ができるんだ、というご理解でしたですよね。それを昨日、研修しているうちに、末永先生がこう言ってます、「教学の大家と言われた高橋正雄先生、もし高橋正雄先生が今日の時代におられて合楽の話を聞かれたら、そして、今日の朝の御理解を頂かれたら、もう、高橋イズムと言われた高橋教学が全部根底から変っとっただろう。」と言ってます。
と、いう程しに、昨日のご理解は素晴らしいご理解だったわけです。
ね。教祖生神金光大神があらゆる宗派、宗教から、もう抜きん出ておる、という、昨日のご理解はそいうご理解だったんです。ね。
だから研修しないとわかりません。
 昨日の研修は皆さん、素晴らしい研修が出来ましたけれどもね、やはり勉強しなければいけない。
 私は昨日、上野先生に発表を求めましたら、最近はやっぱ、まとめませんでっすもんね、年寄の先生方は、若い先生方のごと、いかん。だから、お話を頂いたらここだ、と思う、断片的なでもよいから書きなさい、と、でないと頭がね、動かんごとなるよ、と。
 皆さんの場合でもすですよ、聞くばかりではだめです。頭がね、素晴らしい事に回転していかないです、日々稽古しよらん、ね。
 そういうふうにして、言うなら神様が、こういう心が荒れておったり、ね、言うならば、人間と言うものは、言うならば朝の五時に起きよったつが六時になると、もう六時の方がよかごつなる。七時まで寝とくと七時の方がよかごとなってくる。そういうところが人間にはあるから、言うならば、それが惰落につながる、というご理解でした。そういう片一方の、言うなら修行の精神をもって、ね、ここだけは、という、生き方をさせてもろうて、本当の真の人間としての生き方ができるんだよ、というご理解でした。こういう生き方を、言うなら、心を荒れさせんですむのだ、ということでしたよね。
 今日の私は、ご理解は神様に心を荒らす、ということではなくて、皆さんの場合は、心、荒らさないようなものが出来ておるけれども、そこには日々のね、言うなら、草も取らんならん、肥料も与えんならん、言うなら、神がお嫌いいなさる、と言うのぢゃなくて、神様に反対に好かれるという信心を、今日は聞いて頂きました、ね。
荒地荒屋敷というだけではなくてね、神様に嫌われる、と言うのぢゃなくて、神様に好かれる、ということ。それは今、私が昨日、総代に求められた返事を、今言うなら、しとるわけですけれども。
 日参教聴、ね、心行家業の行、ね。合楽理念の実験実証を日々、言うならば、さして頂く、そういう信心をふんまえてのもの、ね。
 それが実際に出来ておる人はごく少い、ということ、ね。日参も出来てない人がある。教聴も出来てない人がある。だから日参的、ね。教聴的信心ということで、日参教聴ということになる。心行家業の行は、も、日々の家業の中に、ね、信行に取り組んでいく、という行き方を、ね、そういう行き方をするなら、必ず神に嫌われる反対で、神にすかれる、神に喜ばれる信心が、そこから育ってくると、思うです。
 神様に好かれただけぢゃいかん。次には、神に喜ばれる信心にならんと、代勝りのおかげにならん。ね。日勝り月勝り年勝りだけぢゃでけん。年勝りから代勝りのおかげを頂くために、神様に好かれるだけぢゃなく、神様に喜ばれる信心と言うのは、その先である。
ね。
 ためには、自分の荒地荒屋敷、自分の心を荒さん、というだけではあなくて、そこに喜びの種をまいて、喜びの収穫が出来るようなおかげを頂かなきゃならん、ということですよね。
                「 どうぞ 」